パリの小さな店で、舌平目のムニエルを頼んだことがある。
その日のために、私はずいぶん下調べをしていた。店の成り立ち、シェフの経歴、火の入れ方の流儀、合わせるべき白の産地。手帳には、訊きたいことが十いくつも並んでいた。
皿が運ばれてきた。焦がしバターの匂いが立ちのぼり、レモンとケッパーが光っていた。
一口食べて、手帳を閉じた。
用意してきた質問は、どれも意味を失っていた。訊くまでもなく、皿がすべてを答えていたからだ。あの香り、あの塩梅、骨から素直に外れる身。言葉で確かめようとしていたことは、すでに舌の上で証明されていた。
考えるとは、答えを用意することではない。
下調べは、たしかに要る。調べ尽くしていなければ、その一皿が何を成し遂げているのかを受け取ることすらできなかったはずだ。けれど、調べたものをそのまま持ち出した瞬間に、目の前のものは見えなくなる。
積み上げて、捨てる。捨てられるだけ積み上げておく。
無になるために、調べる。私にとって考えるとは、そういう作業です。